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2007年09月20日 上田の魅力9

 上田城近くにある市営野球場のようす。近所の人の話では戦国時代、この辺一帯は堀(百間堀)だったとか。川を利用して造ってあるようで、言われてみればたしかに元の姿がなんとなくわかるような気がします。こんな大きな堀だったから2度にもわたる徳川勢を撃退できたのでしょう。

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 文献(上田市の文化財)によると[二の丸については「三十間堀」が埋め立てられたり、北西側の「百間堀」(ひゃっけんぼり)と呼ばれた大規模な濠跡が土居の法面(土手)を観覧席に利用した陸上競技場や野球場に改修されたりしてます。]と記述
 百間といえば約180mですからすごいものです。大阪城の堀より長かったかもしれません。ちなみに堀の水の深さは約2mくらいあったそうで、これは当時、極秘事項で殿様ほか一部の人しか知らなかったとのこと。というのは敵方や忍者に知れると対策がとれるからだそうです。確かに2mもあったら歩いて石垣に行けませんね。
 ここを徳川の大軍が2回攻めてきましたが、どういう状況だったのかちょっと興味を持ったので調べてみました。
1回目(「郷土の歴史 上田城」文献による)
 天正13年(1585)8月2日、徳川軍7,000人余・真田軍2,000人足らず、戦死者:徳川軍1300人余・真田軍40人程
 戦況:真田軍は徳川軍を城ぎわまでおびき寄せて反撃にでる作戦。徳川軍3km先の神川(かんがわ)まで敗走し、増水していた川で溺死者多数。
2回目
慶長5年(1600)9月6日、徳川軍38,000人・真田軍2,500人、戦死者不明
 戦況:両者数日間のにらみ合いのうちに何度かの小規模な衝突(刈田をめぐって)が起こっただけで終わり。ただ、徳川軍に損害があったようで旗奉行は自害、刈田奉行らは左遷させられています。テレビだと2回目の戦いは、たいへんな戦いが何回もあったようなイメージですけど徳川軍も急いでいたので、それどころではなかったのかもしれませんし、大軍でしたから油断があったのでしょう。
 この最強と言われた徳川軍を2回も撃退していたことで真田昌幸・幸村親子の名前は全国に知られることに。それと徳川軍の中に漫画「センゴク」の主人公千石秀久がいるのですから何か不思議です。
 関ヶ原の戦いが慶長5年9月15日ですから、徳川秀忠軍はここでの数日間(9月7日に小諸城に退去、8日に諏訪に出て険しい大門峠を通って美濃へ)のにらみ合いは致命的だったはず。でも、このとき豪雨により各地で川が氾濫しているので秀忠軍が遅れた(合戦時にはまだ木曽)のも仕方ないでしょう。秀忠ファンとしては応援したくなります。
 当時、秀忠軍は東山道を通って関ヶ原へ行ったそうですから、公家達の別所温泉へ行く行程と一緒。時代は違いますが、もしかしたらすれ違っていた?
引用参考文献:上田市誌編さん委員会編「上田市の文化財」214p上田市、「郷土の歴史 上田城」20p21p上田市立博物館編集発行、「別冊歴史読本 真田一族」新人物往来社

この記事へのコメント
Re:上田の魅力9 by 横島 義之

初めてブログを見ました。戦後昭和天皇陛下が上田へ参られ、市営球場で君が代吹奏をした記憶がよみがえりました。(中学1年生当時)1〜2回/年墓参りに参ります。(呈連寺)上田周辺には古いお寺が多くありますよ。

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